我々はなぜコナミのへたれアニメを愛してしまうのか

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ジャンル:
まんがかんそうぶん
シリーズ:
あにめかんそうぶん
種類:
読みもの
最終更新:
2007年03月05日 22時16分
シリアル:
2007-03-05-05
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  • コナミデジタルエンタテインメント(2007-03-21)
  • ¥ 4,568 (定価:¥ 6,090, 24% off
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おとぎ銃士赤ずきんを毎週見ている。ついでに言うと、セイントオクトーバーも毎週見ている。

どちらの作品も、ストーリー的にもアニメーション的にも、決して質の高い作品とは言えない。にもかかわらず、僕はこのふたつの作品を結構楽しんでいる。ネットの掲示板を観察してみると、僕以外の大きなお友達の多くも、同様にこのふたつのコナミアニメを楽しんでいるらしい。

これは大いなる謎である。我々は、小手先でないアニメーターの職人芸が存分に発揮された、迫力ある動きまくりのアニメーションを望んでいたのではなかったのか。血湧き肉躍る、あるいは抱腹絶倒の、はたまた感涙に咽ばずにはいられない、ストーリー性の高い作品を渇望していたのではなかったのか。21世紀のアニメのこれからを考える上で、この謎は早急に解明しておく必要がある。

設定の作り込み

おとぎ銃士赤ずきんセイントオクトーバーふたつに共通する点として、設定、特にキャラクターに関する設定の作り込みの細かさがある。このふたつの作品では、キャラクターの衣装、使用するアイテムの形状やギミック、呪文や能力の名称、キャラクター同士の関係性が、些末な部分まで入念に設定されている。

一般におたくと呼ばれる大きなお友達層は、こういう細かい設定と、設定を「発見」する楽しみを好む。だから、このふたつの作品に、大きなお友達をフックする素地があることは理解できる。最近では、京都アニメーションの涼宮ハルヒの憂鬱が、作品内世界のタイムテーブルを設計したうえでエピソードの放送順をシャッフルしたり、作品内や公式サイトにさまざまな「遊び」を仕掛けるといった細かい作り込みにより、UHF局の深夜アニメであったにもかかわらず、多くのファンを獲得したばかりだ。

ただ、大きなお友達層における、涼宮ハルヒの憂鬱とこのふたつのコナミアニメの評価はまるで違う。ハルヒは憧憬され称賛されたが、コナミアニメは、まるでゆるキャラの一種を愛でるように愛玩されている。

この差異が生まれた理由のひとつは、おそらくコナミアニメの設定の方向性の奇妙さにある。赤ずきんの、赤ずきんが連発する謎の文句「じゅ〜ぅすぃ〜」が銃士の掛詞であったり、メインキャラクターが全員14歳である設定や、セイントオクトーバーの主人公三人の名前のなかに「聖十月」「コナミ」のキーワードが隠されている設定は、あまりにも些末で周縁的である。ごく正直に言うならば、すごくどうでもいい。この設定を知って呆れる人はいるだろうが、感心する人はたぶんいない。

もうひとつ奇妙なのは、設定の細かさと、実際のアニメーションの出来ばえがちぐはぐである点だ。制作スタッフの熱意や愛情が作品から溢れていたハルヒとは異なり、コナミアニメの場合、それらの設定がいきいきと生かされている感じがあまりしない。どこかで歯車が噛み合っていないというか、より率直な表現を使うと、アニメ制作者の側でもてあまされているような気配が、なんとなく漂っている。

原案と制作の温度差

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  • コナミデジタルエンタテインメント(2006-09)
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たとえば、おとぎ銃士赤ずきんには、トゥルーデというキャラクターが登場する。悪の女王サンドリオンの腹心である彼女は、強力な魔法使いであり、登場するたびに赤ずきんたち三銃士をことごとく苦しめる(→公式サイトのキャラクター説明)。

グリムの収集した童話では、トゥルーデは普段女性の姿をしており、真の姿は炎の頭を持つ悪魔なのだが、赤ずきんにおけるトゥルーデは、青と黒を基調とした、どことなく深海魚を思わせる装飾で全身を隠しており、本当の姿はヴェールの奥に隠されている。

彼女のデザインは、おそらくストーリー上欠かすことのできない伏線、または視聴者に対する謎かけである。だから変更はできない。しかし、トゥルーデおばさんのデザインは、毎週放送のテレビアニメーションで動かすにはあまりにも複雑すぎる。彼女が登場するたびにアニメーターがひとり死ぬので、トゥルーデは四ツ葉騎士団のメンバーだけでなく制作スタッフにも恐れられているという噂が、大きなお友達の間でまことしやかに語られているくらいである。だから結果として、おばさんはあまり登場しないし、登場してもあまり動かない。意外と話のわかる人だ。

しかし、トゥルーデが動かない、あるいはストーリーに絡まないのは誰が悪いのかと訊ねられたら、そんなものはこんな複雑怪奇なキャラクターデザインを持ちこんだ奴が全面的に悪いに決まっている。経験を積んだ大きなお友達は、そこらへんの事情をなんとなく察している。だから出来がヘタれていても、あまり制作側を責める気持ちになれない。

黒歴史の実現

では、アニメで動かすには無理のあるキャラクターデザインや、アニメ本編に生かしようのないほど詳細な設定を持ちこんだ原案側を責められるかと訊かれると、大きなお友達としては、じつはこちらも責めづらい。

というのは、最初に述べた通り、彼らの設定の作り込みは、(方向性は多少奇妙であるものの)かなり高いレベルに到達しているからだ。あからさまな手抜き設定ならともかく、作り込みの細かさを瑕疵として挙げるのは、おたく気質の人間には心情的に難しい。

加えて、作り込みの細かさの方向性が、大きなお友達をして、これらの作品を批判しにくいものにしている点も見逃せない。

例を挙げよう。おとぎ銃士赤ずきんの公式サイトには、登場キャラクターの相関図が用意されており、キャラクターのアイコンをクリックすると、個別に用意されたキャラクターの紹介ページが表示されるようになっている。この相関図は最初、一部が「?」マークで隠されており、新キャラクターが登場するたびに更新されていた。ほかのアニメ公式サイトと比較すると、このサイトの作り込みはかなり細かいと言っていい。

しかし、おとぎ銃士赤ずきん公式サイトの真価が発揮されるのはここからだ。キャラクター相関図の右下にある「赤ずきんたちの小さいころはこちら→」のリンクをクリックしてほしい。主要キャラクターの幼少時の設定が一挙に表示される。このページから漂うのは、まぎれもない設定マニアの臭いである。それも、わりと重度の。

たとえば、主要キャラクターのひとり、グレーテルの幼少時の設定を見てみよう。彼女は兄を慕うあまりサンドリオンに荷担し、物語の鍵を握る少年、草太を奪うために、三銃士に何度も挑戦しては破れる役割の少女である。敵方が毎回破れるのは、こういうお話の定型なので、これはとりあえず彼女の咎ではない。彼女は、負け方が毎度毎度あまりにもあっけない上に、子供の使い程度の任務すらまともにこなせないことが判明したため、一部好事家から「しずもる」という新動詞を奉呈されるに至るのだが、それもここでは本題ではない。三銃士側に寝返った彼女が意外な強さを発揮し、「強敵→仲間になった後は、次の敵の強さを強調するために弱体化する」のセオリーとまったく逆の経過をたどったのちに戦線離脱したのも、今となっては良い思い出である。

えーと、ともかく、グレーテル(6才)の紹介文を引用してみる:

小さいから、とにかく兄であるヘンゼルを頼りにしており、典型的な(というか度を越えた)お兄ちゃんっ子。13才になる今でも兄離れができない。
サンドリヨンすら気づいていないのだが、実はヘンゼルに匹敵する(もしかしたら越える?)潜在的魔法能力を持っている。
今は兄のためと無理に自分を鼓舞しているが、元来戦いなどまったく好まない性格で、絵を描いたり料理をしたりが本当のグレーテルである。
グレーテルはミッシンググレイヴを勇壮に振るうグレーテルではなく、この6才の時の純真で優しいグレーテルが本来の彼女なのである。

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  • 霧海 正悟(2006-12)
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奇譚のない意見を言わせてもらえるなら、これはいろんな意味でギリギリの文章である。伏線(になるかもしれない要素)を公式サイトでばらしているという意味でもギリギリだけど、この、「本編ではクライマックスまで秘密だけど、重要な要素だから忘れないように設定表には書いておくよ」「本当はSSS級だけど面倒くさいからB級だよ」臭が漂う文章は、別の意味でギリギリなのだ。

そう。我々は、我々大きなお友達は、この棺を知っている! 決して開けてはいけない棺。いまとなっては記憶から存在を抹殺してしまいたい、黒い歴史の詰まった棺。赤ずきん公式サイトで世界に向けて情報発信されているのは、まさしく我々がかつて大学ノートやルーズリーフに書き散らかした末に封印し、おそらく今現在も現役の中学生や高校生によって連日連夜生産されているであろう種類のコンテンツである。

ただ、最初に断わった通り、コナミアニメの設定群は、黒歴史的ではあるが、作り込みのレベルは高い。コナミアニメの原案者は、黒歴史的な設定群を実際の作品化まで持ってゆくことに成功しているのだ。

コナミアニメは、黒歴史の作品化と開陳という、我々にとって羨ましいような羨ましくないような微妙な境目に位置している。大きなお友達が、コナミアニメの設定を強く糾弾できないもうひとつの理由がここにある。嫉妬や羨望せずにいられないほどの超絶ではなく、同じ脛に疵持つ身としては批判もしづらいクオリティ。そこに、おそらく作為ではなく、天然のセンスで、偶然立っていたことが、コナミアニメの人気の妙なのだろう。

憎めない天然

コナミアニメを取り囲む状況は非常に奇妙だ。作品がアニメーションとしてヘタれていることは確かなのに、責めを負わせられる人が誰もいない。

原案の設定は一定以上のレベルに到達しているし、設定そのものは破綻していない。破綻しているのはこの場合実装である。しかし、無理な設定を押しつけられたことが理解できるので、制作側の責任も追求しかねる。大きなお友達としては、些末な部分まで設定を積み重ねて世界を作りあげる喜びも、「どうですか! すごいでしょう! この設定があればすごい作品ができますよ!」と膨大な設定書の束を押しつけられた制作側の困惑も、両方理解できてしまう。

そのいっぽうで、ヘタれたアニメを見せられることで、視聴者も人生の有限な時間を浪費している。コナミアニメに関わった者は誰も得をしていない。三方一両損というか、同病相哀れむというか、ともかく困った構造である。

しかし、原案と制作の思惑のずれと、出来上がった作品のちぐはぐさ、あるいはそこに視聴者自身を加えて三者ともに困っている状況は、俯瞰した視線から見下ろすと、とても面白い。コナミアニメを楽しむ我々は、じつは困っているという状況を楽しむという、難易度の高い娯楽に興じているのかもしれない。

参考

  • 雑誌感想アーカイブス:月刊COMIC BLADE緋色雪による漫画版が連載中)