僕が通っていた高校の裏には山があった。歩いて楽に登れるくらいの高さで、形からすると山と言うよりは台地と言ったほうが正確かもしれないが、ここでは一応山と呼んでおく。山は種々の緑で覆われていて、校舎の西側をずっと続き、南に一部張り出している。山の上には野球のグラウンドがある。
校舎を挟んだ山の反対側には校庭があり、校庭の端にはあまり立派とは言えない木が何本も植わっていて、石垣と金属のフェンスが外の細い道路との境になっている。道路は緩やかな下り坂になっていて、南側から来ると、はじめフェンスと木の葉越しに校庭を見下ろし、通りすぎる頃は逆に石垣を見上げる格好になる。つまり、この高校は坂の途中の傾斜した土地をざっくり平らに切り開いた土地の上に存在している。校舎の南側は山が張り出して崖になっており、坂を下ってくる人の目から山際にある校舎を隠してしまうので、その高校はぱっと見には寂れた、遊具の少ない公園のように見える。坂の途中に校門がなければ、あるいは見落としてしまえば(門は多少奥まった場所にあるので、見落とすのは難しくない)、そこが高校だということにさえ気づかないかもしれない。
西側全面と南側の一部を山に覆われているので、午後を過ぎると日差しが入りにくく、校舎の中はいつも暗い。校舎が山と平行に建っており、廊下が西側にあるのも校舎が暗くなる一因になっている。南側に張り出した山の麓に水源があるせいで、校舎の中の空気はいつも湿気があり、ひやりとしている。雨が降るとすぐに結露が起き、窓ガラスが曇り、リノリウムの廊下はいっそう滑りやすくなる。以前大雨が降ったときに裏の崖が崩れて、校舎の下半分が土砂に埋まったことがあるので、手を伸ばしても道具を使っても届かない高い場所や、掃除のしにくい隅の部分の壁は今もどことなくくすんだ、ほこりっぽい色をしている。
校舎の裏の山裾は墓地になっている。墓石や卒塔婆が並ぶごみごみした一般用の墓地ではなく、昔の殿様の一族が葬られた、広々とした静かな墓所だ。墓は大きく、形も一つ一つ変わっている。何層にもなる高い塔のようなもの、分厚い石碑のようなもの、沖縄にある合祀式の墓のような平たい作りのものもある。墓の周りには樹や植物が植えられ、石組みの幅の広い階段があり、墓と墓との間には塀がしつらえてある。植えられてから年月を経ているので、樹や植物はどれも立派だ。春と秋の二回、造園業者がやってきて草刈りと剪定を行ない、その日は学校中にチェーンソーのけたたましい音が一日中響き渡る。墓の一部に金木犀が植えられている個所があり、秋になるとひっそりと花を咲かせる。
なぜ学校の裏に墓地があるのか、不思議に思う人もいるかもしれない。もちろんそれにはちゃんとした理由がある。この高校はかつて土地の大名の菩提寺があった場所に建っているのだ。それも寺院の裏にあった墓地の真上に。成立年代は覚えていないが、寺院建築は大変立派なものだったらしく、江戸時代に大名の庇護の元で隆盛を極め、この地方の商業・文化の中心地にもなっていたらしい。確か内部に士族の学問所のようなものも備えていたのではないかと思う。それが明治の廃仏毀釈によって衰退し、戦後の荒廃の中で教育の重要性が叫ばれると、残っていた墓地の一部を市が摂取してその上に高校を築き、大名の墓所だけが史跡として後に残された、というような流れだったはずだ。それほどの興味があったわけではないので、詳しい歴史は忘れてしまった。
学校の建設にあたっては、入学したばかりの生徒たちも動員された。一列に並んで校庭をならしている生徒たちを校舎の屋上から撮った白黒の写真が残されている。彼らは傾斜した土地を平らに切り開き、墓石を撤去し、掘り出した遺骨を近くの別の墓地に運んで埋葬した。撤去された墓石の一部は石垣に転用された。
大体において学校には七不思議とか怪談と言うものが付き物だが、そのような歴史があるせいで、この高校におけるその手の噂話には、他と比べてどことなく真実味があった。例えば、この高校には水泳用のプールがなかった。かつてはあったのだが、僕が入学するずいぶん前に埋め立てられ、跡地はバレーコートとして利用されていた(そのせいで、高校を通じて一回も水泳の授業を受けることはなかった)。そして、なぜプールが使えなくなったのかについて語る噂話がまことしとやかに伝えられていた。曰く、水泳部の女子が放課後一人で練習していたら、誰もいないはずなのに足を引っ張られておぼれそうになった、髪の異様に長い女性がプールの中に沈んでいて、髪が海草のように揺らめいているのを見た、云々。話自体はどこの学校にもあるようなありふれたものだったが、ここの場合はプールが実際に使用できなくなっているだけに信憑性があった。他にも、校庭の校旗掲揚用のポールが突然倒れてきて下敷になって死んだ女の子の話を聞いたことがある。僕が在籍していた頃、ポールは校舎の屋上に設置されていた。噂では、事故の後でその場所に立て替えられたということだった。
僕にとって高校時代は楽しいものではなかった。中学の時仲の良かった友人は全員別の高校へ進んでいた。同じ中学から来た生徒もいないではなかったが、僕は彼らとはあまり親しくなかった。当時、僕は心の中に小さなわだかまりをずっと抱えていて、上手に人と打ち解けることができなかった。そのわだかまりを隠したまま人に接するのは、嘘をついて人をだまし続けるのと同じことのように思えた。僕の抱えていたわだかまりはとても下らない、些末と言ってもよいほど小さなものだったけれど、抱えている当人にとってはそれなりに切実だった。些末で下らないものだったからこそ切実に思えたのかもしれない。
夜、一人になるといつも自分のやったことと、やるべきだったのにやらなかったことを思い出した。胸の中に剃刀のように細い、鋭い刃が置いてあって、それが自分の体をすっすっと削ぎ落としているように思えた。心の中にはいつも脅えがあり、痛みがあったが、もっと恐ろしいのは自分がその痛みに馴れつつあると言うことだった。はじめは張り詰めた糸が徐々に切れてゆくような緊張感があったが、何かが磨耗して無くなってゆくような空虚な気持ちのほうが徐々に大きくなっていった。
あれは確か4月か5月ではなかったかと思う。ともかく春であったことは間違いない。授業の合間の休み時間で、僕は教室移動のために教科書やノートを持って廊下を歩いていた。僕は2階か3階の廊下を歩いていたから、それは僕が二年生か三年生の時だと言うことになる。いつも通り、日の差し込まない廊下は暗く、空気は冷たく湿っていた。その日は年に二回ある剪定の日で、校舎の裏からはしきりに鋭い金属音が聞こえていた。僕は歩きながら何とはなしに窓の外を見た。外には山と墓所が広がっていた。校舎の中はこんなに暗いのに、窓から見える山と墓所は太陽の光をさんさんと浴びていた。造園業者の姿はどこにも見えなかったが、チェーンソーの音は断続的に続いていた。
山は一面新緑に覆われていた。墓所の上にも太陽の光は差し込んでいた。太陽は色あせた敷石や塚の上に落ち、墓所中に植えられた木々や植物をよりいっそう鮮やかに見せていた。長い年月の間に墓石の上に穿たれた窪みの一つ一つまで際立っているようだった。墓所のほぼ中央に、背の高いくすのきが一本生えていた。くすのきは墓所の上に大きく枝を広げ、枝の上には濃い緑の葉と、今年の春に芽吹いた若緑の葉が共生していた。外にはわずかながら風が吹いているらしく、くすのきは時折枝を揺らし、そのたびにくすのきの葉は太陽の光を反射してきらきらと輝いていた。
それはとても不思議な光景だった。外は窓の中の世界よりもずっと生き生きと光り輝いていた。窓の外のくすのきは、暗く湿った長い廊下に比べて圧倒的にリアルだった。死んだ人々の眠る場所である墓所は、校舎の中よりもずっと暖かそうに見えた。淡い色の塀や敷石にさわったときの温もりさえ想像することができた。想像の世界の中で僕は墓所の中をふらつき、石碑に触れ、でこぼこした表面を指でなぞり、くすのきのごつごつした太い幹を見上げ、平らな敷石の上でごろりと横になった。なぜ僕はここにいるんだろう、と僕は思った。ここは僕の場所ではないのに。自分には窓の外の世界のほうがずっとふさわしいように思えた。そこは暖かく、静かで平和だった。こんなのは間違っている、と僕は思った。僕は今生きていて、活動し生活しているのに、僕の世界は空虚で惨めで、それなのに死んだ人々のために用意されている世界のほうがずっと現実的で満ち足りているように見えるなんて。僕は外の世界とこことの落差に愕然とした。それはあってはならないことのように思えた。死者の世界のほうが生者の世界よりも魅力的で生き生きとしていることに、僕は激しく打ちのめされた。
僕はそのまま廊下を歩き続け、教室にはいって授業を受けた。外に走り出して墓所の中で昼寝をしたりはしなかった。僕にはとてもそんなことはできない。僕は実際にその墓所に入ったことすらない。それでも何かのおりにその廊下を通り、そしてくすのきの樹を眺めるたびに、あそこが僕の場所なんだ、と僕は自分に言い聞かせた。僕はあそこに行くべきなんだ。あの場所に触れ、あの場所に座って休むべきなんだ、と。休み時間、話しかける相手もなく、一人で椅子に座って暇を持て余す時は、自分は今本当は墓所の中を歩いていて、暖かい石の階段の上で昼寝しているんだと想像してみたりもした。
長い年月…、とは言えないが、まあそれなりの月日が流れ、僕は25歳になった。故郷を離れて東京に来た。今も友達と呼べるような人間はおらず、半分引き籠もりのようになって生活をしている。
17歳の少年が殺人を犯し、また別の17歳の少年がバスジャックを行なったとニュースが報じたとき、僕は彼らの行動に対して共感することはできなかった。また、彼らを断罪することもできなかった。僕はそんなに立派な人間ではない。そのかわり、僕自身は17歳の時に何を思い、何を感じていたのだろうと考えた。この文章はその結果として生まれた。